気になるコトバ vol.1 ”踏んだり蹴ったり”
皆さん、こんにちは。arugulaaと申します。
僕には昔から気になっている言葉があります。
それは「踏んだり蹴ったり」。
意味は「重ね重ねひどい目にあうこと。」(デジタル大辞泉)
なぜ気になるかというと、だってそれ能動態じゃん..
イメージが湧きやすいと思うので、 浦島太郎の物語を例にしてみます。
浦島太郎の物語はじめの方で、カメさんがこどもたちにいじめられていますよね?
太郎が助ける前にカメさんを助けて、インタビューをしてみましょうか。
インタビュアー「カメさん、今日は災難でしたね」
カメさん「いやあ、まったく。踏んだり蹴ったりでしたわ」
いや、嘘つけよ。お前むしろ「踏まれたり、蹴られたり」してただろ。
ついでに先ほどの子供たちにも話を聞いてみましょう。
インタビュアー「今日は何をされていましたか?」
子どもたち「午前中は、カメを踏んだり蹴ったりしてましたね」
そう、そうなのよ。「踏んだり蹴ったり」っていじめてる側の言い方じゃないですか?
だから、僕としては「踏んだり蹴ったり」より、「踏まれたり蹴られたり」の方が文法的にあっているように感じてしまうんですよね。
これまでの僕の意見を表にまとめてみました。
踏んだり蹴ったり | いじめてる側じゃん |
踏まれたり蹴られたり | こっちの言い方が正しくない? |
(どうでもいいですけど、踏んだり蹴ったりって韻を踏んでますよね。初めて会った人に「踏んだり蹴ったり、サルヴァドール・ダリ」とだけ言ってその場を立ち去ってみたい)
ただ今までの僕の主張(といえるほどではないですが)には、
「踏んだり蹴ったり」の主語が話し手自身であるという前提があって、
そこに違和感がある気もする。
ということで、さっきのカメさんのコメントをもう一度見てみましょう。
「いやあ、まったく。(わたし(=カメ)は)踏んだり蹴ったりでしたわ」
そう、踏まれたり蹴られたり、されている側なのに、
踏んだり蹴ったり、している感を感じてしまう。
じゃあ今度は、暗黙の主語をいじめている側にしてみましょうか。
「いやあ、まったく。(子供たちは私を)踏んだり蹴ったりでしたわ」
うん、正しい気がする。
ほかのより実際的な例も見てみましょう。
「恋人にはフられ、上司には怒られる。最近は踏んだり蹴ったりだ」
よくありそうな話ですね。
さっきのカメさんのように物理的に踏まれたり蹴られたりしていない分、
抽象度は高まって、主語の特定はさっきより厄介です。
仮説1)
「恋人にはフられ、上司には怒られる。最近(恋人や上司は俺を)踏んだり蹴ったりだ」
この考え方は、先ほどのカメさんの場合と同じといっていいでしょう。
仮説2)
「恋人にはフられ、上司には怒られる。最近(運命は俺を)踏んだり蹴ったりだ」
これはちょっとかっこいい。「運命」を「人生」に代えてもよさそうですね。
どちらの仮説にしても、暗黙の主語は自分をひどい目にあわせたひと(もの)という点で共通しています。
だから、やっぱり「踏んだり蹴ったり」というときには、主語は自分以外ということなのでしょうか。
でもなんかちょっとした呑み込めなさも残る。
というのは、やっぱり「踏んだり蹴ったり」って言うとき、
主語が自分であるような感覚があるからなんですよね。
(この感覚はあくまで僕個人のもので、ほかの方々に理解されるかわかりませんが..)
「踏んだり蹴ったり」という言葉は言い回しとして確立していて、
それがために普通の言葉のルールによる検閲を免除されている感がある。
つまり、僕のもやもやポイントは「踏んだり蹴ったり」というとき、
「踏んだり蹴ったりするモノや人」を主語にすることで、
文法的には解釈できるかもしれないけれど、
僕はどうしても自分が主語であるという感覚をぬぐえない、ということです。
あるいは「踏んだり蹴ったり」な話をするとき、
自虐という形で僕は自分自身を「踏んだり蹴ったり」しているのかもしれないですね。そんな気もします。
皆さんは「踏んだり蹴ったり」というとき、暗黙の主語は何を思い浮かべているでしょうか?
これから気になるコトバをブログにしていけたらと思っています。では、また。