気になるコトバ vol.3 「先」って時間的にどっちなの?

こんにちは。arugulaaです。

 

僕には気になるコトバがあります。

それは「先」

 

「先」は下の例のように時間的に未来にも過去にもどちらも使えます。

 

<<未来>>

・5年「先」のはなし

 

<<過去>>

・先日の件ですが...

先の大戦

 

普段は意識することなく使っていますが、よくよく考えてみると気になるので、今回は

「先」について考えてみたいと思います。

 

広辞苑を引いてみると、確かに時間的に未来にも過去にも使える「先」ですが、未来の

意味で使う場合と過去の意味で使う場合ではどうやら感覚が違うようですね。

 

未来の文脈で使う場合、「前途・将来」の意味になり、

過去の文脈で使う場合、「以前・昔」の意味になります。(補足ですが、デジタル大辞

泉では「現在からそう遠くない過去」としています)

 

(僕が受け取る感覚としては、未来の文脈で「先」を使うと明確な予定というよりはど

こか「ぼんやりとした未来」というような印象を受けます。

反対に過去の文脈で「先」を使うと、特定の時間をイメージするような気がします。

あくまで僕の感覚ですが。)

 

ではなぜ同じ言葉でありながら、「先」は未来にも過去にも使えるのでしょうか。

 

新漢語林によると、先は「ル」(先の下の部分としてお読みください)と「之」によっ

て成り立っています。

「ル」は「人」の古字であるので、「ヒト」を表し、

「之」は「足あとの象形が変化したもの」で「人の頭部よりもさきに踏み出した足あと

のさまから、人よりもさきだつ」という意味になるそうです。

 

なるほど、「頭より前にある足」というイメージを「先」という感じは担っているわけですね。

 

このイメージを念頭において、「先」が未来の意味を持つのは当然のように思えます。

誰かが歩き出すのを想像すると、その人は未来に向かって歩いているような感じがしま

す。

数学で使った座標で考えてみると、(プラス側を未来、マイナス側を過去とします)

自分の体が0のところにいるとき、+1のところに片足がついている、そんな感じでしょ

うか。

 

では過去の場合はどうか。この場合「人よりもさきだ」っているというところが肝でし

ょう。例えば、友達があなたより「先」に観たかった映画を観たとしましょう。すると

現時点では友達が映画を観たのは「過去」のことになります。

 

「先日」は今日よりも前に今日になっていたから「先」日ということでしょうか。

 

つまり、過去の意味において「先」を使う場合、

「あるものやひと(=X)があるものやひと(=Y)よりも先立っていること」が転じ

て、「時間的に過去」の意味を持つようになったと考えられそうです。

 

それではまた。

 

 

気になるコトバ vol.2 とっつぁんぼうや

こんにちは。arugulaaです。

 

僕には気になるコトバがあります。

それは「とっつぁんぼうや」

 

だって、名詞と形容詞が逆転してないですか??

 

「とっつぁんぼうや」の意味は

「大人でありながら、要望やしぐさに子供っぽい一面のある人」。(デジタル大辞泉

 

(この説明だと、女性にも使えるように見えますが、どうなんですかね?

 とっつぁん(=とっちゃん)もぼうやも男性に対して使われる言葉のようだから、

「子供っぽい一面のある男」とした方が適切な気がしますが...)

 

つまり、端的に言えば「とっつぁんぼうや」=「大人」なわけです。

 

じゃあ、「とっつぁんぼうや」じゃなくて、「ぼうやとっつぁんじゃないですか??

 

というのが、僕の気になっていることです。

 

ちなみに、「とっつぁんぼうや」および「とっつぁん」は口語的な言い方らしく、

正しくは「とっちゃんぼうや」のようですね。

電子辞書をたたいてみたのですが「とっつぁん」は検索0件でした。

 

僕の主張の根拠となる考えは、

直接に名詞を形容する場合、形容詞は名詞の前に来る!というものです。

 

例を挙げてみましょう。

 

①「楽しい一日」

②「姉さん女房」

 

①の場合、「一日」を形容する「楽しい」が「一日」の前に来ており、

②の場合も同様に「女房」を形容する「姉さん」が「女房」の前に来ています。

 

①や②のような形容詞の使い方を「付加的用法」というらしいです。(ブリタニカ国際大百科事典)

英語の「限定用法」(Attributive Use)※と同じ感じですね。

 

※形容詞が直接名詞についてこれを修飾・限定するもの。

(綿貫陽 ほか,『ロイヤル英文法改訂版』, 旺文社, 2016年, p263)

 

この考え方を押し広げて、「とっつぁんぼうや」についても考えてみましょう。

 

繰り返しになりますが、「とっつぁんぼうや」は「大人」です。

そして、彼(とっつぁん)は子供っぽいらしい。

 

とすると、「ぼうや」は形容詞として働くと考えられるから、やはり

 

「ぼうやとっつぁん」の方が正しい!ように思えるんですけど、どうなんですかね~.. 

 

でもまあ、「ぼうやとっつぁん」の方が正しい!といってみたところで、

埒が明かないので語源を想像してみます。

 

町の商人みたいな人「おい、聞いたかい。あの酒屋の旦那はいい年なのに博打ばかりやって、それでいてろくに仕事をしやがらねえ。あのとっつぁんはぼうやみたいなもんだ。」

  ↓↓

「あのとっつぁんはぼうやだ」

  ↓↓

「とっつぁんぼうや」

 

「火男」→「ひょっとこ」くらい 眉唾な想像だけど、考えられるのはこれくらいかなあ..

 

と、まあ、ここまで「とっつぁんぼうや」について色々考えてきたわけですが、

「とっつぁんぼうや」みたいに後ろから名詞を修飾する日本語ってほかにもあるんです

かね?

あったら今までの話はなんだったのか?となるわけですが、英語だと割と普通にありま

すもんね。下の例文だと「strange」が後ろから「nothing」を修飾しています。

Nothing strange happened.(何も変わったことは起こらなかった)(前掲書,p271)

 

ということで、「とっつぁんぼうや」型、後ろから名詞を修飾するタイプの言葉を探すというのが僕の今後の課題となりました。

 

それでは、また。

 

 

 

 

気になるコトバ vol.1 ”踏んだり蹴ったり”

皆さん、こんにちは。arugulaaと申します。

 

僕には昔から気になっている言葉があります。

それは「踏んだり蹴ったり」。

意味は「重ね重ねひどい目にあうこと。」(デジタル大辞泉

 

なぜ気になるかというと、だってそれ能動態じゃん..

 

イメージが湧きやすいと思うので、 浦島太郎の物語を例にしてみます。

浦島太郎の物語はじめの方で、カメさんがこどもたちにいじめられていますよね?

太郎が助ける前にカメさんを助けて、インタビューをしてみましょうか。

 

  インタビュアー「カメさん、今日は災難でしたね」

  カメさん「いやあ、まったく。踏んだり蹴ったりでしたわ」

 

いや、嘘つけよ。お前むしろ「踏まれたり、蹴られたり」してただろ。

 

ついでに先ほどの子供たちにも話を聞いてみましょう。

 

     インタビュアー「今日は何をされていましたか?」

    子どもたち「午前中は、カメを踏んだり蹴ったりしてましたね」

 

そう、そうなのよ。「踏んだり蹴ったり」っていじめてる側の言い方じゃないですか?

 

だから、僕としては「踏んだり蹴ったり」より、「踏まれたり蹴られたり」の方が文法的にあっているように感じてしまうんですよね。

 

これまでの僕の意見を表にまとめてみました。

 

踏んだり蹴ったり いじめてる側じゃん
踏まれたり蹴られたり こっちの言い方が正しくない?

 

 (どうでもいいですけど、踏んだり蹴ったりって韻を踏んでますよね。初めて会った人に「踏んだり蹴ったり、サルヴァドール・ダリ」とだけ言ってその場を立ち去ってみたい)

 

ただ今までの僕の主張(といえるほどではないですが)には、

踏んだり蹴ったり」の主語が話し手自身であるという前提があって、

そこに違和感がある気もする。

 

ということで、さっきのカメさんのコメントをもう一度見てみましょう。

 

いやあ、まったく。(わたし(=カメ)は)踏んだり蹴ったりでしたわ」

 

そう、踏まれたり蹴られたり、されている側なのに、

踏んだり蹴ったり、している感を感じてしまう。

 

じゃあ今度は、暗黙の主語をいじめている側にしてみましょうか。

 

「いやあ、まったく。(子供たちは私を)踏んだり蹴ったりでしたわ」

 

うん、正しい気がする。

ほかのより実際的な例も見てみましょう。

 

「恋人にはフられ、上司には怒られる。最近は踏んだり蹴ったりだ」

 

よくありそうな話ですね。

さっきのカメさんのように物理的に踏まれたり蹴られたりしていない分、

抽象度は高まって、主語の特定はさっきより厄介です。

 

仮説1)

「恋人にはフられ、上司には怒られる。最近(恋人や上司は俺を)踏んだり蹴ったりだ」

この考え方は、先ほどのカメさんの場合と同じといっていいでしょう。

 

仮説2)

恋人にはフられ、上司には怒られる。最近(運命は俺を)踏んだり蹴ったりだ」

これはちょっとかっこいい。「運命」を「人生」に代えてもよさそうですね。

 

どちらの仮説にしても、暗黙の主語は自分をひどい目にあわせたひと(もの)という点で共通しています。

だから、やっぱり「踏んだり蹴ったり」というときには、主語は自分以外ということなのでしょうか。

 

でもなんかちょっとした呑み込めなさも残る。

 

というのは、やっぱり「踏んだり蹴ったり」って言うとき、

主語が自分であるような感覚があるからなんですよね。

(この感覚はあくまで僕個人のもので、ほかの方々に理解されるかわかりませんが..) 

 

踏んだり蹴ったり」という言葉は言い回しとして確立していて、

それがために普通の言葉のルールによる検閲を免除されている感がある。

 

つまり、僕のもやもやポイント踏んだり蹴ったり」というとき、

「踏んだり蹴ったりするモノや人」を主語にすることで、

文法的には解釈できるかもしれないけれど、

僕はどうしても自分が主語であるという感覚をぬぐえない、ということです。

 

あるいは「踏んだり蹴ったり」な話をするとき、

自虐という形で僕は自分自身を「踏んだり蹴ったり」しているのかもしれないですね。そんな気もします。

 

皆さんは「踏んだり蹴ったり」というとき、暗黙の主語は何を思い浮かべているでしょうか?

 

これから気になるコトバをブログにしていけたらと思っています。では、また。